高市早苗首相の7月1〜3日の訪印に合わせ、日印両政府がバイオガスを燃料とするCNG車の普及に向けた枠組み(MoU)を交わす。主役はインド乗用車市場で最大シェアを握るスズキで、同社はすでにグジャラート州で牛糞由来のバイオガス生産を稼働させている。EV一辺倒で進む世界の自動車戦略とは一線を画し、インドの実情に合わせた燃料を国家規模で広げる構想だ。インド進出を検討する日本企業にとって、これは「現地の土着資源をどう事業の核に据えるか」という問いを突きつける動きになる。
日印政府がバイオガスCNG車の枠組みに合意
報道によれば、両政府は高市首相の訪印中にバイオガス車普及の枠組みに関するMoUを交換する。狙いはクリーンモビリティとエネルギー安全保障の双方の強化にある。具体的には、牛糞を発酵させてメタンを取り出し、CNG車の燃料に使う生産プラントをインド国内で約1,000基まで増やす目標を掲げている。
この構想を産業面で下支えするのがスズキだ。同社はすでに日本政府の「グローバル・サウス」向け支援を活用してインドでバイオガス生産を始めており、政府間の枠組みと民間の実装が噛み合った形になっている。高市首相にとっては2025年10月の就任以来初のインド訪問で、モディ首相との首脳会談では経済安全保障・クリーンエネルギー・経済成長が主要議題に挙がる。
なぜ今バイオガスなのか
背景には、インドの自動車市場が持つ独特の構造がある。CNG車はインドの新車乗用車販売の2割超を占めており、EVが中心の先進国市場とは前提条件がまったく違う。原油輸入への依存度が高く、エネルギー安全保障が国家的な課題であるインドにとって、国内で調達できる燃料源を増やすことは経済合理性と政治的要請の両面で意味を持つ。
そこで浮上するのが牛糞だ。インドは世界有数の畜産国であり、農村部に膨大な量の家畜排泄物が滞留している。これを発酵させればメタンが取れ、圧縮すればCNG車の燃料になる。輸入に頼らず、農村に偏在する廃棄物をエネルギーに変える。EVのように高額な車両や充電インフラを前提とせず、既存のCNG車インフラの延長線上で動かせる点も、価格に敏感なインド市場と相性がいい。
スズキの第2工場が示す事業の輪郭
枠組みの実効性を測るうえで、スズキの実プラントの数字は参考になる。同社がグジャラート州バナスカンタ県ブカラ(Bhukhala)に開いた第2工場は2026年1月に稼働し、3月にメディアへ公開された。処理能力は牛糞1日あたり最大100トン、そこから取り出すバイオガスは1日あたり約1.5トンとされる。これはおよそ850台分のCNG車を走らせる量にあたる。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 立地 | グジャラート州バナスカンタ県ブカラ(Bhukhala) |
| 稼働開始 | 2026年1月 |
| 処理能力 | 牛糞 1日あたり最大100トン |
| バイオガス生産量 | 1日あたり約1.5トン(CNG車 約850台分) |
| 原料調達 | 地元農家から牛糞を集荷 |
| 位置づけ | 2023年9月合意の5工場計画の一環 |
注目すべきは、スズキがガス販売だけで事業を成立させようとしていない点だ。メタンを抜き取った後の牛糞は有機肥料として販売する計画で、これはガス収益だけでは採算が厳しいという現実への対処でもある。1つの土着資源から燃料と肥料という2つの出口を作る発想は、後述するように進出企業にとって示唆に富む。
現地・業界の受け止め
農村側からは、これまで処理に困っていた家畜排泄物を地元工場が買い取る仕組みへの期待が聞かれる。集荷が現金収入につながれば、農家にとっては副収入源になり、工場にとっては安定した原料供給網になるという指摘だ。
自動車業界の関係者からは、CNGインフラがすでに2割超の市場を支えている以上、燃料の中身をバイオガスに置き換える「ソフトな移行」は現実的だとの見方が出ている。車両を買い替えさせるEV普及よりも、既存ユーザーをそのまま脱炭素側に引き込める点が評価されている。
一方で、約1,000基という目標規模に対しては、原料となる牛糞の集荷網と採算性をどこまで広域で再現できるかが鍵だという慎重な声もある。1工場が地元農家との関係に支えられている以上、横展開には土地ごとの調整が要るという現場感覚だ。
インド進出を検討する日本企業への示唆
この動きから日本企業が読み取るべきは、「インド攻略の本丸は土着資源の活用にある」という一点に尽きる。先進国で磨いた製品やビジネスモデルをそのまま持ち込むのではなく、インドにありふれていて、しかも他者が価値化できていない資源を事業の核に据える。スズキの牛糞バイオガスは、その典型例だ。
具体的なアクションに落とすなら、自社の事業ドメインで「インドに偏在し、未活用で、自社の技術で価値化できる資源」を1つ特定することから始まる。農業残渣、食品加工の副産物、都市部の有機廃棄物など、対象は業種によって異なる。重要なのは、輸入に依存しない国内調達であること、そして政府の政策的優先順位(エネルギー安全保障・脱炭素・農村所得向上)と重なることだ。スズキの事例は、この3つを同時に満たしたからこそ政府間の枠組みにまで引き上げられた。
もう1つの示唆は、収益の出口を複数持つ設計だ。スズキが燃料と有機肥料の二段構えで採算を組んだように、土着資源ビジネスは単一の販売先では成り立たないことが多い。進出計画の段階で、主産物と副産物の両方に値札を付けておく姿勢が、現地での持続性を左右する。
市場への波及
政府間の枠組みが整えば、バイオガス関連の設備・計測・メンテナンスといった周辺領域に商機が広がる。約1,000基という目標は、発酵槽・ガス精製・圧縮充填・肥料加工といった工程ごとに部材や技術の需要を生む。日系の素材・機械・計測機器メーカーにとっては、完成車ではなくバリューチェーンの一工程で食い込む余地がある。
また、グローバル・サウス支援という資金の流れと民間事業が連動した点も見逃せない。今後インドで脱炭素や農村開発に関わる事業を組む際、政府支援スキームと自社事業を接続できるかどうかが、初期投資の重さを大きく変える。スズキのケースは、その接続が成立した先行事例として参照価値が高い。
関連情報・あわせて読みたい
インドのクリーンモビリティをめぐる動きは、EVと内燃機関の中間にある選択肢が複線で走っているのが特徴だ。EV側の供給網や規制の最新動向もあわせて押さえておくと、自社がどの層を狙うべきか判断しやすくなる。
EV電池の国産化を進めるインドの認証動向はオラ・エレクトリックのセルBIS認証の記事で、使用済み電池の循環をめぐる商機はインドのEV電池リサイクルの記事で詳しく扱っている。日印連携の枠組みそのものの広がりは日印アッサム連携の記事もあわせて参照してほしい。
まとめ
日印のバイオガスCNG車枠組みは、インド市場で勝つための原則を1つの政策に凝縮して見せた。EVという先進国の正解を持ち込むのではなく、牛糞という現地にあふれる資源を燃料と肥料に変え、エネルギー安全保障と農村所得という国家課題に接続する。進出を検討する日本企業がまず取るべき一手は、自社のドメインで「インドに偏在し未活用の資源」を1つ特定し、主産物と副産物の両方に出口を設計したうえで、政府支援スキームとの接続可能性を確かめることだ。スズキが示したのは、現地最適化が単なるコスト調整ではなく、事業の根幹を組み替える戦略だという事実である。
